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窪田ミナさんが語る、考えて抜いて音楽を作ることの大切さ(前編)

『ARIA』シリーズ、『マクロスΔ』『ももへの手紙』などのアニメ作品、また『ゲゲゲの女房』や『山女日記』『ラスト・ドクター』『隠蔽捜査』などテレビドラマの劇伴も手掛けてきた作曲家の窪田ミナさん。

高校卒業後英国王立音楽院に留学し、作曲科そして商業音楽科修士課程を卒業後、イギリスにて音楽制作コーディネイトなどの仕事に従事したという経歴をお持ちです。

アーティストとしても『モーメント』などのアルバムをリリースし、現在ソロ・ピアノ・アルバムを準備中の窪田さん。インタビュー前編では、音楽院での厳しい教えや、留学当時・1990年代~2000年代初頭のイギリスという国の空気・文化から学んだ大切なことについてお話を伺いました。

ピンク・フロイドのメンバーの自宅でピアノを弾いたという逸話も!現在のご活躍のベースを築いた、貴重な経験談となっています。

テレビ東京系テレビアニメ『ARIA The ANIMATION』オープニング曲のセルフカヴァー

「音が多いっていうのは考えてない証拠だよ」

窪田さんが音楽に初めて興味を持たれた時期はいつ頃でしたか?

最初は4歳のときに、習い事のひとつとして音楽教室に入ったんです。幼稚園以外のお友達もできて、楽譜が読めるようになったら学校の音楽の授業で役に立つかな、くらいの感じで(親は)入れたみたいですね。そうしたらハマっちゃったみたいで(笑)。

私が入ったのは4歳から6歳までのコースで、幼稚園の間だけ行かせる予定だったらしいんですけど、音楽教室のコースが終わって次どうするかってなった時に自分から「続けたい」って言いました。

ピアノも習っていたのですが、音楽教室では曲作りも進めていて。幼稚園の時は童謡のような歌詞を歌いながら弾ける曲、みたいなものを作ってたんですけど、小学校に入ったらソナチネぐらいの感じになってきて、そうなってくると「作曲、楽しいな」って思うようになって。そのまま今も続けている感じです(笑)。

ちなみに、日本での学生時代はどんな音楽を聴かれていたのでしょうか?

ソウルとか、あとジャズのレコードが家にあったので、ジャズを聴いてましたね。なのでレッスンではクラシック、家ではソウルとかジャズとかを聴いていたんです。

あと、デイヴィッド・フォスターが当時すごく流行ってて。シカゴにデイヴィッド・フォスターが(プロデューサーとして)入り込んでた時期があったじゃないですか?あの時期とかすごくハマって聴いてました。あとやっぱりスティービー・ワンダーとかは、今でも聴いてますね。

その後英国王立音楽院(Royal Academy of Music)に進まれるわけですが、こうした幼少期からの経験の延長に進路が見えてきたのでしょうか?

A day at Royal Academy of Music

2年に1人、海外の音楽大学に留学させてくれる奨学金制度があって、高校1年生の時に「行きませんか」って言われたんです。全くもって考えてなかったので「え、行けるの!?」ってなって。それで、何箇所かの候補の中から、アカデミーを選びました。

若い子たちが自分の曲をオーケストラと一緒に自分で演奏するという、イギリス、フランス、東西ドイツなど世界各地を回るコンサートに招かれたんです。で、それに招聘されていたムスティスラフ・ロストロポーヴィチさんという、世界的に有名なチェリスト・指揮者の方のマスタークラスみたいなものを受けられたんですよ。

共演した際の窪田ミナさんとロストロポーヴィチ氏(本人提供)
ロストロポーヴィチ氏が音楽監督を務めていたワシントン・ナショナル交響楽団の
ニューヨーク国連総会議場でのコンサートに招聘され演奏する窪田ミナさん(本人提供)

直接本人から聞いたわけではないのですが、ロストロポーヴィチさんが「この子は海外の音大に行かせたらいいんじゃないか」って推薦してくれたから候補になったんだよ、と他の方を介して聞きました。それを聞いてなかったら、海外に行くとかは考えなかったですね。音大に行くのもどうしようかな、と思っていたくらいなので。

留学するにあたって、ご両親の反対だとか、ハードルはありましたか?

父がちょっと渋るかも、みたいな感じだったんですが、母が暗示をかけて説得してくれたというか(笑)。

海外留学を経験しているほうが何かあった時に役に立つというか、行こうと思っても行けないところだし、せっかく勧めてくれてるんだったら行ったほうがいい、っていう結論に両親ともなって。

「もっともっと考えなさい」

アカデミーでは何年間勉強されたんですか?

大学で4年、大学院で1年ですね。4年コースの作曲科で勉強しようと思っていたのですが、4年目に、その時勉強していたことを完遂するためにはあと1年足りないと思って。それには大学院に行くしかないんですけど、奨学金は4年の約束だから困ったなぁと。それで奨学金の団体に「もう1年、大学院に行かせてもらえませんか?」って聞いたら「いいですよ」って言ってくれて。

大学院は本当は2年なんですけど、4年目が大学院に行くための間のコースみたいな感じの捉え方なので、4年目に大学院の勉強もしていました。

私は商業音楽科というところにもダブルメジャー(複数専攻)していたので、作曲科では現代音楽の作曲……武満徹とかメシアンとかフィリップ・グラス、ああいった感じのものを。商業音楽科の方ではコマーシャルミュージック、それこそ劇伴を書いたりとかジングルを書いたりとか、あとバンド形式のレコーディングはどうやって進めるか、プロデュースはどうやってするかとかを勉強していました。そこでちょっとした打ち込みとかも勉強しましたね。

学費はその奨学金で?

そうです。生活費は個人負担でした。

英語は準備して行かれたんでしょうか。

準備はほとんどしていなくて、高校生の受験英語レベルでしたね(笑)。

それでいきなり現地の大学で学ぶとなると、大変だったのではないでしょうか。

そうですね。私が言うことを向こうは理解できるけど、向こうが言ったことが速すぎてわからない(笑)。だから最初は授業をテープで録音とかしていました。

あと向こうの大学って、エッセイを書かないといけないんですよね。それが結構大変だったかな。歴史とか、曲を分析するクラスって大体エッセイを書かないといけなかったし、そこそこ長いものを書かなきゃいけなかったから。

あと作曲科の試験って、試験官の先生とのインタビュー形式なんですよ。3年生までは1時間、4年生からは1時間半、先生とそういった形式のレッスンが毎週あって。だからそれに耐える曲を毎週書かなきゃいけないんです。必ずしも完成していなくてもよくて、途中までもいいんですけど、先生と1時間討論するだけの長さはないといけなくて。

曲を持っていくと、ふむふむ……と先生が初見で読んでくれて、「この曲について説明して」って聞かれるんです。自分なりに答えた後、先生が改めて楽譜を見て、「ここでこんな風にしてるけど、なんでこうしたの?」とか、この曲にどういう思いを込めたかとか、なぜこの曲を今書かなきゃいけないと思ったかとか、書きたい欲求ってどこからきているのかとか、なんでこの編成なのかとか色々聞かれるんですね。

そのレッスンで学んだことで、今でも役に立っていると思うことはありますか?

当時言われたことは今でもずっと反芻してますね。たとえば「いっぱい書くな」とか。

曲を書いてる時って興奮してるから、どうしても書きすぎちゃう、音が多くなっちゃう。でもよく聴くと、要らないものも沢山あるから、「曲を書いたら一旦寝かせなさい」と。一旦冷静になって、次は消しゴムを持って見直して、要らないものをどんどん消していきなさい、と。そうしたら本当に研ぎ澄まされたものを作れるよって教わったんです。

あと、「ここの箇所は繋ぎが悪いなぁ」と思いながらなんとなく作ってしまうのは一番ダメなパターンだとも言われましたね。「考えてないからそうなってるんでしょ、もっともっと考えなさい」と。考える時間が長ければ長いほど、いかに無駄な音が少なく、研ぎ澄まされた形で音の積み重ねができるかっていうのを思いつくよ、「音が多いっていうのは考えてない証拠だよ」と。

先生から技術的な質問……「ここでこうなってるけど、なんでこうしてるの?」と聞かれて、「うーん」って答えられないと、すかさず「説明できないってことは考えてないでしょ」って言われる。

要するに「説明できないことは一切するな」ってことなんです。なんとなくやるのは駄目だってすごく言われました。なぜこれをやってるのか説明できないということは、人に対して説得力がないということ。だから聴いてる人が納得できないんだって。こういった教えは、DAWを使うようになった今でもすごく肝に銘じていますね。

なるほど……!DAWであれば音を入れたい放題だったりもしますしね。

(音を)多く入れたくなる瞬間って誰にもあると思うんですよ。でも、早い時期に先生にこう言ってもらえたのはすごく助かっているし、先生に言われたことに当時逃げずに向き合ったことも良かったかなと。

もちろん曲作りをしている中で、なんとなくっていうのも必要になってくるんですよね。説明できない音が入っているものも作らないといけない。でも若い時にこの課題と向き合ってなかったら、もっと説得力がない、なんとなくな作品になっていたかなと。

いつも自問自答というか、書くたびに「何が大事か、何をしたいのか、なんで書いてるのか」をずっと考えながら作るというのも大事なことかもしれないですね。

イギリスにはいつ頃までいらっしゃったんですか?

1990年から、結局2000年ぐらいまでいましたね。学校は95年までだったんですが、その後もお仕事をしていたので。

どんな仕事をされていたんですか?

学生の頃はレコーディングの通訳とかコーディネートに、お手伝いで行ってたんです。当時日本のアーティストがロンドンでたくさんレコーディングしていたんですよね。山のようにコーディネイトの仕事がありましたし、アビー・ロード・スタジオにある3つのスタジオ全部が日本人のレコーディングだったときもありました。

記憶に残っているお仕事ってありますか?

レコーディングに来る現地のミュージシャンって、すごく上手な一流の人を呼んでるので、そういう人たちを見れたのは良かったですね。

私も関わっていた聖歌隊の男の子達のアルバムがあるんですけど、ジョン・シーミスさんっていうギタリストを呼んでたんですよ。カルチャー・クラブとか、いっぱい参加されている方です。

ジョン・シーミス氏によるジミヘン・トリビュート動画

彼は楽譜がすごく苦手で、渡しても見ないんです。何回か曲を聴いて覚えて、そうしたら次々にギターを弾いて、どんどん重ねていって。

話好きなので、ずっと喋ってるんですよ(笑)。たばこもずーっと吸ってて。ギターにタバコを挟んで弾いたりとか、「そんなにタバコを吸いたいんだ!」って(笑)。ジャージを着てて、でも車はジャガー、みたいな(笑)。ああいう能力を持ってる人がいるっていうのもすごいなと思いました。

スタジオでのレコーディングで、日本との違いはありますか?

片耳用のヘッドホンを向こうの人は結構よく使いますね、弦の人とか。イギリスのスタジオには用意されていたんですけど、日本でもあれがあるといいなと思いますね。

「ロジャー・ウォーターズの家にピアノ弾きに行ってくれる?」

レコーディング以外にもピアニスト、演奏者として仕事をしていたりしたんですか?

パーティーとかで皆さんが歓談してる時に、バイオリン・チェロ・ピアノで1時間弾いてくれ、みたいな仕事は結構ありましたね。

イギリスには、家で催すパーティーに生演奏を入れる文化があるんでしょうか。

家でもあるし、一番面白かったのは、教会の修道士たちの集まりがあって、集まりの途中で曲を弾いてくれ、みたいなお仕事。「お金は出ないけどご飯は食べていってね」って言われて、出てきたのがキュウリのサンドイッチだったんですよ。ひどくありません?(笑)

あと学校の先生から「君さ~、クラシックだけじゃなくてなんでも弾けるよね? 〇日って暇?」って聞かれて、「暇です」って言ったら「ピアノ弾きに行ってくれる?」と。「どこにですか?」「ロジャー・ウォーターズの家」って言われて(笑)。

ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ!

そう(笑)。彼の家のクリスマス・パーティーで、家って言ってもお城みたいにすごいんですよね。普通、タクシーに乗ると住所言いますよね? 彼の家は“何とかハウス”って呼ばれてて、タクシーの運転手さんにそれを言えば伝わるんです。観光名所みたいな感じですね。タクシーに乗って行き先を言ったら「今日は何があるの? パーティー?」「あ、そうです」みたいな(笑)。

家に着いたらすごく綺麗なロジャーの奥さんに「今日は楽しい夜だから、ラグタイムとかがいいかしらね」って言われて、「スコット・ジョプリンですかね、わかりました」って感じで演奏して。でも「メープルリーフ・ラグ」とか「ジ・エンターテイナー」とかは知ってるけど、段々ラグタイムの知ってる曲も少なくなってきて、最後の方は自作ラグタイムでしのぐっていう(笑)。

すごい経験をされましたね……!パーティーでの生演奏もそうですが、音楽が生活の一部みたいな感じなんでしょうか。

びっくりしたのが、普通の人がすごく音楽に詳しいんですよね、隣に住んでるおじさんとかが。たとえば流行ってるポップスとか、そういうのについて詳しいっていうのはわかるじゃないですか。そうじゃなくてクラシックにも詳しかったり。現代音楽の作曲家の名前を言ったら知ってたりするんですよ、音楽家でない人でも。

BBC PROMSっていう、夏に盛大に2ヶ月間くらい開催してる音楽祭があるんですが、あれの影響が大きいのかなと思います。イベントのポスターが街中に貼ってありますし、音楽関連のイベントを見たり聴いたりする機会が多いんでしょうね。音楽が生活に溶け込んでいる感じ。

イビサをテーマとした「The Radio 1 Ibiza Prom」

当時はクラブミュージックも流行っていたかと思いますが、滞在中にクラブとかにも行かれましたか?

行きましたね、Ministry of Soundとか。ハウスとかテクノとか、何か独特でカッコよかった。当時イギリスはヒップホップというよりもハウスやテクノ寄りでしたよね。ギター中心のバンドか、クラブ・ミュージック。マンチェスター系もカッコよかった時期ですね。

イギリスだと、街中で音楽がバンバン耳に入ってくるんですよね。そうすると「どうやら今はこれがキてるらしい」みたいな感じで、すごく気になったりして。クラブミュージックはセンスいいな、流行るのわかるなって思ってましたね。

クラシックを学んでる子、普段はベートーヴェンとか弾いてるような子もクラブ大好きなんですよね。みんな行ってましたよ。学校の催し物でもテクノナイトとかがあったり(笑)。

クラブミュージックでは、どんな音楽を聴いてらっしゃったんでしょうか。

マッシブ・アタックとか、あとケミカル・ブラザーズとか、あとはポーティスヘッドの暗いやつ(笑)。アンダーワールドもいましたね。衝撃度でいえば一番大きかったのはビョーク。あのアルバム(『デビュー』)で「ひえー! ネリー・フーパー(※)かっこいいー!」ってなってました(笑)。

※ネリー・フーパー:音楽プロデューサー。ビョークの作品では『デビュー』(1993)『ポスト』(1995)の2枚のアルバムに携わる。

「本物」を見たことは絶対自分のどこかに残る

改めて、その時期にイギリスで勉強できたことは貴重な経験だったと思いますか?

すごく思います。音楽だけじゃなくて、あの頃イギリスって本当に、マルチカルチャーっていうんですか、今みたいにあんまり分断されてなくて、いろんな人が共存するっていうことが体現できていた時期だと思うんですよね。

差別が全くなかったわけじゃないですけど、色んな事情の色んな出自の人たちと普通に話したり、友達になったりできるっていうのは良かったなと思うし、そういう文化があるっていうことを学べたこと自体すごく良かったなと思います。

あと私、イギリスにいる時は週に1・2回はコンサートに行ってたんですよね。特に何かに繋げようとか、参考にしようかと思って行ったわけではないですよ。ロンドンで演奏を聴けるのは今しかない、日本に帰ったら聴けない……だからなるべくたくさん行こうと思って。コンサートにも行くし、ロニー・スコッツに行ってジャズも聴くし、ダンスとかお芝居とか色んなものを見て。それが今すごく役に立っている気がします。

あの劇場とかコンサートホールとかの空気を吸ったり、空気の震えを感じたりするっていうのが大事だったんだと思うんです。ただ本当に良いもの、「本物」だと思えるものを見ることはすごく大事ですよね、若い人は特に。そのことは絶対に後になっても自分のどこかに残るので。

記事の後編はこちらからご覧くださいませ!

Interview & Text: 岩永裕史(Soundmain編集部)

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