2021.11.12

田中秀和インタビュー(前編) 2021年、アニソン界きっての人気クリエイターはなぜ独立の道を選んだのか?

「カレンダーガール」(TVアニメ『アイカツ!』EDテーマ)、「恋は渾沌の隷也」(TVアニメ『這いよれ!ニャル子さんW』OPテーマ)、「花ハ踊レヤいろはにほ」(TVアニメ『ハナヤマタ』EDテーマ)……2010年代以降のアニソンシーンを彩る数々の“神曲”を生み出してきた、アニソンリスナーの間で最も「作家買い」されるクリエイター・田中秀和さん。作家デビュー以来、長らく所属してきた音楽クリエイター集団・MONACAから独立するという今年8月の発表(田中さんご本人のツイート)は、多くのアニソンファンに衝撃を与えました。

そんな新たなクリエイター人生の一歩を踏み出した田中さんに、今回インタビューが実現。計10,000字超の貴重な内容を、前後編でお届けします。

前編となる本記事では、音楽クリエイターを目指すに至るまでの学生時代のお話や、具体的な作曲家としてのお仕事の工程、そして独立に至った経緯などについてお話いただきました。アニソンファンはもちろん、クリエイター志望の皆さんも必見です!

田中さんご本人作成によるオフィシャルプレイリスト

物心ついたときには「作家」を意識

すでにいろいろなところでお話されているとは思うんですけど、まずは音楽クリエイターを目指したきっかけからお聞かせください。最初から作家志望というか、いわゆるアーティストとしてデビューしようという志向性はなかったんですか。

そうですね。幼少期の頃からずっと音楽には触れてはいて、例えばピアノを習ったり、ギターを自分で独学で練習してみたり、吹奏楽部でドラムとかパーカッションをやったりしていたんですけども、全然うまくならなくて。練習が苦手というか、勤勉さが全然足りていなかったところがあって、自分のプレイヤーとしてのポテンシャルみたいなものに、結構若いときから限界を感じていた部分があって。

やっぱりアーティストデビューとなると自分でプレイして表に出て、って形になっていくと思うんですけど、自分はそこの苦手意識がすごく強かった。例えばバンドを組んで表に出ることもあったんですけども、お客さんにワーッて言われる高揚感もありつつ、その瞬間よりも自宅でバンドで披露する曲を作っている時間のほうが幸福感を感じる時間だったんです。

なるほど。ちなみに作家という形の音楽への関わり方というのは、発想として昔からあったんですか。

そうですね、本当にいつそれを知ったか覚えていないぐらい、物心ついたときにはもうあったと思います。入りはゲームだったんですけども、マリオシリーズやゼルダシリーズで有名な任天堂の近藤浩治さんとか、ファイナルファンタジーの植松伸夫さんとか、そういった方々のお名前は本当に小学生ぐらいのときから存じ上げていて、自分でちょっと耳コピをしてみたりとかいったこともしていたので。

あと、モーニング娘。さんなんかもすごく好きで。その音楽を誰が作ってるかというとつんく♂さんが作っていて、だからつんく♂さんのことも好きみたいな、そういう小中学生だった気がします。

田中さんは1987年生まれですよね。自分も1988年生まれなんですが、個人的には、ちょうど大学に入った2007年くらいに初音ミクが出てきて、ある種つんく♂さん的な「裏方なんだけど、すごく記名性の強い存在」としてボカロPを発見したという感覚があるんです。田中さんは学生時代に、ボカロを触って何かやってみようという風には思わなかったのでしょうか。

言われてみれば確かに、僕、ボカロって本当に1回も触ったことがないかもしれないです。2007年当時、僕は大学2年生で、バンドを組んで自分で楽曲を作っていたんですけども、もしかしたら僕の周りに歌を歌ってくれる人たち、一緒に音楽を作れて、歌も歌ってくれるボーカルの人がいてという環境だったのが、僕とボカロが交差しなかったひとつの要因なのかもしれない。

ボーカリストさんに歌ってほしいけれども、そこが叶わない。けど自分で打ち込むことによって、ボーカル曲を生み出すことができる。当初はそういうニーズに応えるために生まれたのが、初音ミクというソフトだったと思うんです。なのでその点において、僕はそことマッチしなかったのかなと今改めて思いました。

歌ってもらうボーカルの人というのは、バンドを組んでいた特定のどなたかひとりという感じだったんですか。

そうですね。割と特定の、自分がそのとき組んでいるバンドの人という感じなんですけど、でも、例えば高校のときから組んでたバンドのボーカルの人だったり、大学でもいくつかバンド組んでいたり、そういう意味では複数人に自分の作った曲を歌ってもらっていました。

やっぱりプロになってからは、いろんな人のために書いていくわけじゃないですか。声のキーの高さだったり、その人のキャラクターであったり、違いがあるわけで、最初からそういうことに慣れていらしたのかなと思ったんです。

どういう声の人に対してどういう曲を書くかというのは、実際に仕事をする中で試行錯誤しながら少しずつ培ってきたものかなと思いますね。最初は自分が作りたい曲を作るのでいっぱいいっぱいだったんですけど、何度かじゃあ次はこの人に歌ってもらおう、というのを繰り返す中で、経験として培われてきたのかなと。

ではボーカルが乗る前の、いわゆるインストの音楽を作るということがやはり田中さん自身にとっても喜び、楽しみであり、その延長上に作家としての仕事があったと。

そうですね。あと、やっぱり自分が作家を目指した一番大きな要因として、神前暁さんとの出会いが大きくて。どんなオーダーに対しても、ものすごいクオリティで応えていて、すごく姿の見えない黒子のような存在なんだけど、でも、クレジットに神前暁って書いてあったら間違いないみたいな、職業作曲家としてのヒーローみたいな存在で。自分もそんな風になりたいなって思ったのが、作家になろうと思った一番大きなきっかけだったので。

その意味においては、アマチュア時代から自分なりになんとなく架空のオーダーを想定して、今回はこういうテーマで作ろう、という作り方をしていましたね。もちろん半分は自分の作りたい音楽ではあったんですけど。

神前暁さんご自身の選曲によるMONACAオフィシャルプレイリスト

独立に至るまで

プロになると、やっぱりディレクター的な立場のオーダーを出す人、作家とアーティストとの間に入る人は必ずいますよね。普段どういったやり取りをされているんでしょうか。

テキストベースのみで行われることはほぼなく、何名かで打ち合わせ的なものが行われることがほとんどですね。でも特にコロナ禍以降、オンライン上での打ち合わせがどんどん増えて。それがニューノーマル的な打ち合わせとして定着してきているんですけど、個人的な思いとしては可能であるならば、お互い顔を合わせて打ち合わせをしたほうがいいなと。やっぱりどういう楽曲を作っていくか、異なる立場の人間が同じ方向を向いて作業するというのは、すごく繊細で難しい手続きだなと感じていて。オンラインだけだとどうしても言葉のニュアンスだったりとか、どういうことを伝えようとしているのかを掴みきれなかったりする部分があるので、できれば対面で打ち合わせさせていただくようにしています。

独立されてからもそういった形に関しては変わらないですか。

基本的には変わっていないんですけど、今は本当に僕ひとりでやっていまして。これまでは、いわゆるクライアント、発注してくださったディレクターさんと、クリエイターとの間に制作進行……例えばリテイクだったり、もうちょっとこういう風にしたいです、というやりとりを間に入ってしてくれる人がいたんですけれども、今はそこがいないという状態です。

率直に言って、どうですか、大変ですか。

そうですね(笑)。やっぱり制作進行の人って、いろんな面においていてくれると助かる存在で。でも、予想はしていたというか。大変というのはわかってたんですけど、一度その部分の仕事も経験してみたくて独立したいと思ったところもあるんです。

というのは僕の場合、業界に入ったイコールMONACAに入ったということで、そこでの制作のやり方しか経験してこなかったから。もちろんMONACAで学ばせていただいたことはたくさんあるんですけど、そこからもう一歩、自分の制作のやり方というものを作り上げていきたいなと感じたんですよね。なので、今は自分がやりたいことができているなと感じています。

なるほど。ちなみに、独立しようと思った具体的なきっかけは何かあったのでしょうか。もちろんそれまでの積み重ねがあってのことだとは思いますが。

おっしゃる通り積み重ねがあっての話で。MONACAというチームに対してクライアントさんが発注された中から、「今回の楽曲は田中がチャレンジしてみてもいいんじゃない」って言ってもらえた、そういうチャンスをいただく形でキャリアを積み重ねてきて。すると「今回は、田中秀和に楽曲をお願いしたいです」というお話も少しずつ増えてきた。それは自分にとってはもちろんものすごくありがたいことですし、自信にも繋がってきて。そんな中で、漠然と独立ということをここ何年か思ってきたんです。

そんな中でコロナ禍というものが訪れて。もう本当に人生というか、人類にとって何が起こるかなんて、本当に誰にもわからないんだなという風に思ったんですね。それは自分にある種のサバイブ精神というか、自分で生き残るしかないんだなという風に感じさせたんです。なので何かひとつきっかけを明確に取り上げるとしたら、コロナなのかもしれないなと思います。

なるほど。ちなみにYouTubeチャンネルを昨年に始められていたじゃないですか。それも今のお話と関係がありますか?

そうですね。それまではやっぱりお話しした通り、MONACAに来た仕事を自分がもらっているという流れだったものを、文字通りチャンネルを持って、例えば仕事がもう全部なくなってしまったようなときにおいても、自分ひとりでも何かコンテンツを発信していけるような場所を少しでも自分で作り上げる必要があるんじゃないかなと感じたのが、(チャンネル開設の)大きなきっかけだったので。ちょっと今は動かせていないんですけども、また再開したいなと思っています。

独立するにあたって、特別に準備されたことってありますか。

それが……すごい恥ずかしいんですけど、特にないんですよね。MONACAの内部で独立させていただきたいというご相談をしてから、結構ちゃんと時間もあったんです。でも、ありがたいことに日々の仕事がたくさんあって……なんでしょう、癖みたいなものなのかもしれないですけど、やっぱり自分は制作に一番時間を使ってしまうんです。となると、準備的なことに全然手が回らなくて。もちろん関係者の方々へご挨拶はきちんとしないといけないなと思いましたし、したつもりではあるんですけれども。あと引っ越し……は一応したか。他にはなんでしょうね。

顧問の弁護士を見つけてくるとか、法人登記するとか。

そう言われると、ちょっとずつしていたのかな。知り合いの弁護士の方にご相談に行ったりもしましたし、あとは法人化についても、これは独立した後だったんですけど、させていただいて。なので独立後に、少しずつやっている感じですね。

あと、これは本当に半分言い訳みたいな話なんですけど、独立してみてからじゃないとわからないことって多いんじゃないかと思って。何か困ったことが発生したとして、その時に考えればいいかっていう風に思ったかもしれないですね。

結構昔からの性格という感じですか。まずは飛び込んでみて、という。

そうですね、割と楽観的なほうなのかなと。実際に挑戦してみて、何かうまくいかなかったり、失敗や挫折があったとしても、その上で再チャレンジするのは全然、何も問題ないんじゃないかなと思っていて。

違う畑やジャンルの依頼が来たとしても、まずはちょっとお話を聞いてみて。

そうですね。でも、一方で自分のブランディング的なものは大事にしたいなと思っていますね。ここで、「じゃあこういう仕事は受けない」みたいな話にはならないですけど、来たものを全部受けるというつもりはないかもしれないです。

独立前からそういったブランディングの意識はありましたか? 「田中秀和と言えばこれ」みたいなものを楽曲の中にどう忍ばせていくか、というのは。

それはめちゃくちゃあると思います。音楽的な部分では、特にクライアントさんに対して、田中秀和という人間に音楽を頼むとこういう感じになるんだというのをわかりやすく打ち出していくことによって、名前も覚えてもらって、またお願いしようって思ってくれるようにと、そういう意識で作っていました。具体的に楽曲を挙げていくのは難しいんですけども。

もちろんオーダーだったり歌う方のイメージだったりは大前提としてあるんですけれども、何かその上で、自分というクリエイターに楽曲を発注した意味みたいなものを、あくまで意識の話で、そういったものをきちんと残さないと、とは思っていましたね。クリエイターなんてめちゃくちゃいるじゃないですか。自分なんかよりも優れたクリエイターさんがたくさんいて、そんな中で、自分がまた「田中秀和で」って名指しでお願いしてもらうための意識は強く持っていました。

あとはSNS的なツールで積極的に情報発信をしていくというのは、自分の仕事が表に出るようになってから、かなり意識的に行っていた覚えがあって。やっぱり最初は自分の名前も知られていないし、自分が発信しなくてどうするんだっていう気持ちで積極的に発信していました。今ももっとやるべきだなと思っていて、ちょっと手が回っていなくて焦っているくらいの感じですね(笑)。

後編では、田中さんご自身が思う「田中秀和」楽曲の記名性、使用されている機材などについてお話を伺います!

取材・文:関取大(Soundmain編集部)

田中秀和 プロフィール

1987年生まれ。大阪府出身。
神戸大学発達科学部人間表現学科卒業。
2010年よりアニメ・ゲーム作品をはじめとした様々なプロジェクトにて楽曲制作を担当。
近年ではCMやアーティストへの楽曲提供も積極的に行なっている。
趣味は散歩。好きなものは絨毯と温泉。