2021.09.01

『サウンドプロダクション入門』著者・横川理彦さんに聞く、「サウンド中心」の音楽制作とDAWの教育的可能性

今年(2021年)3月に刊行された『サウンドプロダクション入門――DAWの基礎と実践』(ビー・エヌ・エヌ刊)は、「DAWを使って音楽を作る」とは何かということを根本から問いなおす、画期的な入門書だ。その核心を「サウンド」に求め、「DAWでの音楽作りのテクニックは、究極のところEQとコンプレッサーの使い方に尽きます」とまで言い切るそのソリッドな整理には、目から鱗が落ちること間違いなしである。「音楽そのものの入門書であり音楽哲学書」(大友良英さんによる推薦コメント)とは言いえて妙な、「作る」だけでなく「聴く」スタンスにも影響を与えうる一冊だ。

そんな名著を著された横川理彦さんの考えをぜひお伺いしたく、Soundmainでは今回インタビューを実施した。横川さんは80年代にP-MODELのメンバーとしても活躍、個人レーベル「cycle」での活動やクライアントワークを手がける他、国内外でのワークショップで講師も行っている。本書の内容も、美学校(東京・神保町にある美術と音楽の学校)で行われている授業「サウンドプロダクション・ゼミ」の内容をもとにしているとのことだ。

本をすでに読んだ人にとっても、「B面」として楽しめるような貴重なお話を聞くことができた今回のインタビュー。ぜひ本と一緒にお読みいただければ幸いだ。

デザインにもこだわった本づくり

この本を書かれるに至った経緯を教えていただけますか。美学校の講義「サウンドプロダクション・ゼミ」(※)の内容をもとにされているということでしたが……。

BNNの編集者の三富さんから、「コロナ禍で在宅時間が増えたこともあり、DTMを始めた(これから始めたい)人も増えているのではないか。そういう人たちに向けてDTMの本を作りたいんです」という話があって。彼は以前に勤めていらした出版社で、Ableton Liveの本(『Ableton Liveによるトラックメイキング』、グラフィック社刊)を作られていて、僕が著者のひとりだったんですね。そういう流れもあって、美学校のホームページで、僕が講師を務めている授業のカリキュラムをご覧になったらしくて。リアルな講義への参加のハードルも高い状況ですし、本になったら多くの人に喜んでもらえるだろうということで、快諾した次第です。

※ 美学校「サウンドプロダクション・ゼミ」概要
https://bigakko.jp/course_guide/mediab/sound/info

なるほど。個人的に昔からBNNさんから出ているデザイン関連の書籍をよく読んでいるのですが、今回の本のブックデザインも素敵ですよね。

章ごとにページの色が変わったりしているんですけど、本のレイアウトやデザインの仕方については綿密に打ち合わせをしています。また、この本でメインに取り上げているAbleton LiveというDAWを作っているAbletonという会社自体、すごくデザインに気を配っている会社なんですね。コミュニティ活動とか、教育活動にもすごく熱心で、ドイツの会社らしいなとも思うんですけど。

ドイツだと、バウハウス(1919~1933年に存在したデザイン学校)とかの伝統もありますしね。

そうですね。僕も教育とテクノロジーのインターフェイスみたいなところはすごく大切だなと思っていて。今回は書籍なので、特に紙の本の見やすさという意味では、うまくいったと思います。

『サウンドプロダクション入門』CHAPTER 1 基礎編より。
『サウンドプロダクション入門』CHAPTER 2 リズム編より。
『サウンドプロダクション入門』CHAPTER 4 ミックス編より。

「サウンド」にフォーカスした理由

では中身の話に進ませてください。本を通して、ざっくり言うと、「現代の音楽は、サウンドというものを良くしていくことが、いかに良い音楽を作れるかの主軸になっている」と主張されていますよね。これは、もともと考えていらっしゃったことなんでしょうか。

そうですね。僕は1957年生まれですが、すでに自分が音楽を好きになって、仕事にするようになったときには音楽の主流は再生物になってしまっていて。アナログだろうがデジタルだろうが、再生物を聴くというのは基本的に「サウンド」を聴くという体験なんですよね。音の感触みたいなものを何より楽しむという。

音楽には伝統的にいろんな約束事というかシステムがあって、たとえばクラシックだとコンサートホールに行って聴くものだ、とかがあるんだけれど、そういう枠みたいなものは、いまはあまり意味がなくなっている。いまは特に取り巻く環境が世界的に画一化というか、イヤホンとかスピーカーとかから聴いている場合がほとんどで、直接演奏したり歌ったりすることを聴くことのほうがレアケースになってしまっている。コロナ禍でますますそういう流れは加速していくでしょう。

横川理彦さん。取材はリモートで行われた

確かに。

そもそも、ある時からコンサートでも、どれくらいPAの技術が上等かで全然評価が変わるようになりましたからね。1986年にプリンスが横浜スタジアムで初めての来日公演をしたときに、それは素晴らしいサウンドだったんです。「まるでレコードやCDで聴いているような」音が大きなアリーナクラスの会場でも聞けるということに、コンサートに行った人は全員びっくりした。音楽の伝わり方の基準というのが、現場においても「サウンドがどうなっているか」ということに完全に変わったわけです。

1986年、デトロイトでのプリンスのライブ。

いま昔の名アルバムでリマスタリングしていないものは、音が悪くてちょっと聴けないじゃないですか。高級オーディオで素晴らしいプレイヤーを持っているおじさんとかじゃなければ、60年代のジャズとかを聴いても全然嬉しくない。リマスターされると昔のオーラがなくなっちゃったりすることもあるのが、悩ましいところなんですけどね。

「いい音楽」の前提条件が変わってしまったというか。昔はサウンドというよりは、生演奏のスリリングさだったり、リズム・メロディ・ハーモニーと言われるような要素の絡み合いだったりが、音楽の個性や価値を決めていたところがあったと思うんですけど。

そうですね。

一方で、著作権法上のいわゆる著作物の定義として、「思想又は感情を創作的に表現したもの」というのがあって。横川さんのお話と照らし合わせると、現代のアーティスト、音楽を作っている人というのは、「思想又は感情」をサウンドの質感のほうに込めることが多くなっているんじゃないかとも思うんです。ただ現状は昔の名残りで、基本的にメロディを作った人が作曲家とみなされている。サウンドを司るのはどちらかというと編曲家の役目で、だから作曲家と編曲家のクレジットが同じ人であることも最近は多いですけど、実態に即していないところがあるのかもしれないと思って。

サウンドに著作権を認めるかどうかというのは、本当に難しいところですよね。作り手の意識と著作権法上の処理には、ずれがあるとは思います。

ただ個人的には、そもそもあらゆる音楽はせいぜい3年とかでパブリックドメインになればいいんじゃないかと、極端に言えば思っていて。作って、最初に著作物として売られたところまではちゃんとお金が生まれたらいいと思うんだけども、そこから先は経済のことよりコミュニティのことが優先的に考えられるべきだなと。作曲した人がことさらにアーティスト扱いされるのも、僕は全然納得いかないなと思っていて。

あ、そうなんですか。

ポピュラーソングのスターとか、西洋音楽での作曲家という考え方もロマンティックというか、古くさい考え方だなと。これも極端に言えばですけどね。「こんなに偉いクリエイターがいるんだ」と持ち上げるような考え方は、あまり信用できないなと思ってるんです。

この本の中にもJ・ディラという人だったり、具体的なクリエイターの名前はたくさん出てきているんですけど、それはスターを生みだすためのシステム的なことに加担しているのではなくて、歴史に残すというか、その人を中心にした音楽のモデルみたいなものをアーカイブしていくという目的があってということですかね。

そうですね。偉大な創造を行った人の系譜の中で、J・ディラのポジションはすごく高い。完全に新しい音楽を作った人だと僕は思っています。それはサウンドという意味でもあるし、リズムという意味でもそう。

J・ディラがもたらした革新を解説した動画「J・ディラがMPC3000に与えた人間らしさ」(英語)

「サウンド」と大きく言ったとき、実はリズムのこともすごく重要だと思っていて。同じリズムのフィギュア(形)、たとえば8ビートをまったく同じタイミングで叩いたものであっても、どういう音で鳴っているのかということが、人間の身体への響き方で全然違うので。

なるほど。

これはよく言うたとえ話で、本にも書いたんですけど、花火大会に行って、「すごくいい音だったな」と思って、そのときに高級機材で生録したものを後で再生してみると、全然迫力がないんですね。それは機材のほうで低い周波数が取れていないからで。現場で身体で感じた低い帯域の圧力みたいなものを、再生してみると全然聞き取れない。それは科学の領域とも言えるし、音楽の領域とも言えるんだけど。

いまは取り巻く環境がデジタル中心になっているのと同時に、音楽自体の変化していく方向もサウンドが中心になっていますね。それこそ高校生の子たちがTikTokでパッと飛びつくときの感じというのは、完全にサウンドや映像の質感だと思うし。

サウンドとリズムの関係

リズムをどう感じるか、というところにもサウンドが関わってくるというのは、この本を読んで特にハッとさせられたところでした。自分はそれまでサウンドって時間軸に対して断面的というか、音楽の中で時間的なものではない要素として捉えていて。一方で、このくらいの時間の中に何拍あって、という時間を司るものがリズムだとすると、サウンドはそれを縦に切っていくもので、リズムとは別の要素だという意識があったんですよね。

サウンドとリズムの認識の関係というのは本当に面白いところです。時間には、すごく簡単に言うと短い時間、中くらいの時間、長い時間という階層があるんですね。で、一番短い時間は瞬間的な、0.何秒とかの時間なんですが、そこでそれぞれの楽器の音色を認識しているんです。つまり「音色」という言葉の中に時間的な認識がすでに含まれている。

有名な話ですけど、クラリネットとバイオリンはロングトーンのところの波形がすごく似ていて、何が違うかというと、音の立ち上がりのところだけなんですよ。ピアノで言えば、最初のアタック音の「ゴンッ」って音が聴こえるから、あ、ピアノが鳴ってるんだと思う。それがサウンドの実態なんです。

一方で、リズムにも時間の階層がある。リズムというのは、周期的な繰り返しをどれくらいで認識するかですよね。サウンドとの関係で最も有名な事例は、スティーブ・ライヒが西アフリカのドラミングを勉強して、そこからミニマル・ミュージックを生みだしたこと。そのときライヒに決定的に欠けていたのは、ドラムの音の高低の区別だったんです。高い音も低い音も全部等価に扱っていたので、それがミニマル・ミュージックというジャンルになっていった。

西アフリカのリズムを学びスティーブ・ライヒが生み出した楽曲「Drumming」の実演動画。

もし音の高低の役割を考えていたならば、スティーブ・ライヒの書いた音楽はただのアフリカ音楽になったはずなんですよ。だから西アフリカの人たちがライヒの音楽を聴くと、リズムの絡み合いを聞いて「あ、これは俺たちの音楽だよ」と感じる。彼らは「この音は低い音に相当する音だろう」という風に、翻訳して考えられるんですよね。僕らが聴くと西洋クラシック音楽をミニマル風に編曲したバリエーションとして聴こえるんだけど、サウンドの意味合いが、それぞれが持っているバックグラウンドの、リズムをどう聞き取るかの文化の違いによって全然違って聴こえるわけです。

ポピュラー音楽の変遷も、ロックが起きたときのサウンドの変化、ハウスミュージックが起きたときのサウンドの変化……とサウンドのほうから見ることもできるし、そうするとジャンルごとの地域性とか民族性とは別のところで、サウンドからメッセージを聞き取るということができますよね。

確かに、リズムは地域性や民族性とも結びつけて語られがちですけど、サウンドはそれと表裏一体の関係にあるというか。

だからレディオヘッドがやっていることなんかは、リズムではなくサウンド面での変革で、そこが面白いんですよね。彼らがバンドとして頑なに守っているのは、「ドラムの音をヒップホップにしない」ということですから。それはロックバンドとしてのアイデンティティがそこにあるからで。アトムス・フォー・ピースとか、トム・ヨークのソロではロックバンドという括りがなくなるものだから、ドラムのサウンドは非常に自由になるんですよね。

レディオヘッドのライブ。(2008年)
アトムス・フォー・ピースのライブ。(2013年)
トム・ヨークのソロ(Tomorrow’s Modern Boxes名義)のライブ。(2019年)

逆に言うと、ドラムのサウンドというのは音楽のジャンルを決める意味で、すごく重要ということですよね。

そうですね。僕がクライアントワークをやるときにも、一番最初にデモが通るかどうかというのは70%くらいドラムの音だと思っていて。そこさえクリアできれば後はどうにでもなる。そこはみんな聴いているところだし、J-POPの可能性もダメなところも、ほとんどそこに尽きると思いますね。