
契約書やメンタルヘルスについて、クリエイターが自ら学ぶ大切さ。プロデューサー/DJ・Hideo Kobayashiインタビュー(前編)
Defected Records、OM Records、King Street Sounds、Drumcodeなどの名だたるハウス・テクノレーベルから作品をリリースし、海外でのDJツアーも何度もこなしているHideo Kobayashiさん。
まさに海外標準なサウンド・デザインを持つKobayashiさんですが、コロナ禍では自らYouTuberとしても動画を配信し、パーソナルな部分を見せつつ積極的にソーシャル・メディアを使われています。
インタビュー前半では、ご本人の音楽遍歴を交えつつ、クラブ・ミュージックにおけるコミュニティーの重要性や、メンタルヘルスのバランスをとりながらどういう姿勢で音楽と向き合うべきなのかなど、様々な角度からお話をお聞きしました。
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新体操の伴奏曲からクラブ・ミュージックの世界へ
Kobayashiさんの音楽遍歴を教えていただけますでしょうか。
4歳ぐらいからピアノを習い始めて、それ以来ずっとですね。年代的にはYMO世代だったので、小中学生の頃にはシンセサイザーやスタジオに意識がいくようになって。高校では競泳と体操競技の部活をやっていたんですけど、学園祭ではシンセサイザーを持ってる友達を集めてYMOのコピーバンドをやったりしていました。
音楽的には友達の影響もあり、アメリカのロックからTOP40もの、UKものを聴いたりしながら、色んな音楽を吸収していました。そんな中90年代に入ってSoul II Soulを聴いた時にパッと感じたものがあって。そこからクラブ・ミュージックという存在を知ったんです。
高校卒業後はスポーツ系の大学に入って、体操競技も続けていました。その傍ら新体操の音楽を作ることをバイト的に始めたんです。スポーツ系の大学だから日本でトップレベルの選手たちが集まっていまして。彼らから「作ってよ」と頼まれて作り始めて、そうしたらだんだんオファーが多くなってきて、大学を卒業してからも制作を続けていました。
当時はどんな機材を使って制作をされていたのでしょうか。
高校生の頃はYamaha DX7、Roland TR-505、JUNO-106とかでしたね。シーケンサーはYamaha QX21という、カセットでデータを保存していくタイプのものでした。
新体操の曲を作っている頃にはシーケンサーはMS-DOSベースになって、カモンミュージックのレコンポーザを使っていました。シンセはDX7とかRoland D-50、サンプラーはRoland S-550とかS-760とかでしたね。その頃マルチ・ティンバーのシンセが出始めて、Roland U-110も使っていました。
新体操の曲ですと、オーケストラ系の曲もあったかと思いますが、全パート打ち込みをされていたんですか?
最初は耳コピでオケ譜をパートごとに書いていました。コントラバスの次にチェロ、チェロの次にビオラ……と下から順に耳コピしていって。パーカッションも、「ドン」とか「ジャン」とか鳴っているものは譜面に書いていました。
既存曲をアレンジしていく場合は、アレンジする箇所を聴きながら譜面を書いて、その次にそのパートを打ち込んで、終わったら次のセクションに移って譜面を書いて打ち込んで……という作り方を繰り返しました。これが勉強になりましたね。
大学卒業後は自然と音楽の仕事をするようになった感じでしょうか。
実は大学を卒業して、実家がある長野に戻って一度就職したんです。でも全然違うな、と思ったので一週間でやめて東京に戻ってきました(笑)。
そこからは「俺は音楽でやるぞ」と決めて音楽の仕事を探して。取り敢えず新体操の仕事を継続してやれば、世の中には新体操の選手が何人いて、1人4曲必要だったら1年間に何曲作れるか……がフェルミ推定で出せるじゃないですか。「この仕事があれば当面大丈夫かな」と思って、音楽で頑張ろうと思えたところはありますね。
ご自身の作品を作り始めたのはいつ頃からだったのでしょうか。
大学を卒業してからですかね。クラブ・ミュージックへの興味が高まっていた時期なので、そういう系のデモを作ったり、新体操でもオリジナル曲を作ってみたり。その頃にはもうオリジナルが半分ぐらいだったかもしれないですね。
やっぱり皆がぶち当たる壁というか、「誰かのあの曲にそっくりじゃないか」みたいに思えてくる時期はありました。でもそんなことを言っている暇もなく新体操の曲を作り続ける必要があったので、気にせず作っていました。
曲のオーダーは選手から直接くるのでしょうか。
そういうことは多かったですね。「ハウスでオリジナルを1曲お願いします」と言われて、慌ててローランドのTR-909のサウンドを買ってきて、マドンナの「Vogue」を聞きながらリズムのパターンを真似して作ったことはよく覚えています。
選手が僕の家に来て、一緒に映像で演技を見ながら曲を作っていくんですけど、作り終わらないと帰らないんですよ(笑)。「もうちょっと重い感じで」とか「太い感じで」とか、あれこれ言われながら作っていたんですけど、選手を目の前に作ることはトレーニングになりました。
一番忙しいときは一か月に何曲くらい作っていましたか?
1分半とかの曲を午前2曲、午後2曲、計4曲とか。それが1ヶ月ぐらい続くんですよ。なのでシーズン中はゲッソリしていましたね。ずっと缶詰状態で運動もしないしコンビニのお弁当を食べながら作るので、体形的にはブクブク太っていくんですけど(笑)。

クラブ・ミュージックに目覚めたのにはどういったきっかけがあったのでしょうか。
興味はずっと持っていたんですけど、缶詰状態で曲を作っていたので、クラブ系の友達がひとりもいなかったんですよ。そこで当時、Sound & Recording誌にあったメンバー募集のコーナーに「プログラマー募集」という書き込みを見つけて葉書を出したんです。
そうして出会ったのがDJ NATSUで、家に遊びに行って「こういう音楽やってるんだ」みたいな話をして、一緒に曲を作り始めたんです。
「クラブに行ったことないから連れてってよ」とお願いして連れていってもらったりもしましたね。西麻布YellowとかSpeak Easyとか。あとは昔のテレビ朝日のスタジオの側にあったGEOIDも印象的で、トランスっぽい超アンダーグラウンドな感じのハコでした。
その頃からハウス系の曲をメインに作っていたんですか?
最初はテクノを作りたいと思っていたのでテクノ関連のパーティーに行ったり、そこで一緒に作る相手を見つけたりしていました。結局DJ NATSUと、もう一人DJ MIK(現DJ MIKU)と3人でLotusっていうユニットを組んで『Kasumi Experience』というテクノ系のアルバムを作って、Newstage Recordsというレーベルからリリースしました。それがクラブ・ミュージックデビューですね。
Newstage RecordsはDJ MIKUを中心としたKey-energyというパーティー・チームのメンバーが集まって、アートワークとかも含めて作っていたというレーベルでした。一緒にいたのは横田進君とかTakayuki Shiraishiさんだったかな。
LotusではRAINBOW 2000という大きいレイヴでライブしましたね。hardfloorの前が僕らで。97年だったと思います。
インストのテクノということで、Lotusの作品は海外にも届いていたんでしょうか。
そうですね。むしろ当時は今より(情報が海外に届くのが)早かったような気がするんですよ。アナログも向こうで刷って流通していましたし。
仕事に関係なくロサンゼルスに行ったときにタワーレコードがあったので行ってみたら、自分たちの曲が収録されている東京発のコンピレーション盤が先行して置かれていて、凄いビックリしましたよ。普通に買い物して帰ろうかと思ったら自分達のCDがあったという(笑)。当時は海外の人達のほうが自分たちのことを知っていたかもしれないですね。
サンフランシスコに住む利点は、クリエイティブなコミュニティがあること
その後サンフランシスコに移住されたんですよね。
テクノの活動に疲れまして(笑)。癒しじゃないですけど、ちょっと違うものを求めてレコード屋さんに行ったら、ある時Naked Musicのジャケットが目に留まって。「なんだこれは」と思って聴いてみたら、雷に打たれたように「自分にピッタリの音が鳴ってる!」と思って。
ダンス・ミュージックだけど自分の好きなキーボードのサウンドが入っていて踊れて、歌詞の内容も深めだったので、これはカッコいいなあと思ったんです。
それで何枚か聴いてるうちにどんどんハマっていって、クレジットを見たらサンフランシスコと書いてあるわけです。これがきっかけでサンフランシスコに何度も遊びに行って、Naked Musicの人達と一緒に遊んだりして自分のデモも聴いてもらったりしたんですけど、なかなかリリースしてくれない(笑)。
日本からはるばる来たにもかかわらず……(笑)。
よし、だったら移住してしまおうと。ダンス・ミュージックのカルチャーって、元々ローカルな友達同士が遊んで大きくなっていったカルチャーじゃないですか。家で曲を作ってクラブに持っていってプレイして反応を試しながらワイワイやって、いつのまにか大きくなっていったというのが発祥だと思うんです。その輪の中にいないと一番好きなことってできないんだろうなと思ったので、日本の仕事も全部引き払って移住したんですよ。
英語は以前から勉強されていたんですか?
教科としての英語は中学の頃から好きだったんです。映画『スタンド・バイ・ミー』をきっかけに「英語いいなぁ」と思って以来、継続して勉強してはいたんですけど、いざ向こうに行ってみると全く通じないし喋れない。しかもクラブの中だと音も大きいので、お酒を買うのも一苦労で。
そういうことを経験しながら、ちゃんと英語を勉強したほうが早道だなと。午前中は学校で英語を勉強して、午後はスタジオで曲作って夜はDJ、そんなスケジュールでやっていましたね。
ちなみに、Naked Musicからリリースはできたのでしょうか。
1曲リリースが決まっていたんですけど、途中で止まっちゃったので最終的に出なかったんですよ。だから「私、Naked Musicです」ってギリギリ言えるのか言えないのか、みたいなところで(笑)。
クレジットの自分の名前の後に(Naked Music)って書けたらいいなって思ってたんですよね。その後OM Recordsからは出してたので(OM Records)とは書けたんですけど。
向こうに似たような音楽性のレーベルはたくさんあって、全員友達だったので、「曲作ったから出してよ」「いいよ、出すよ」みたいなノリでレコードを出していたりしていました。
アメリカって国内盤レコードと輸入盤レコードの値段の差が4ドルくらいあるんですよ。そうすると安いからという理由で地元のものを買うようになる。クレジットを見てみると隣町だったり、サンディエゴだったりロサンゼルスだったりして、「西海岸系の音って共通点があって面白いな」と思っていました。DJセットも自然と西海岸系が多くなって。
あと、サンフランシスコはコンピューター関連の企業が強い土地柄なんです。Appleの社員も普通にパーティーに来たりするので、「今度iTunes Music Storeっていうのをやるから、曲を提供してよ」という話があったりする。スティーブ・ジョブズのすぐ脇で働いてるデザイナーとかも普通に友達でしたしね。
ミュージック・クリエイターだけのコミュニティではなく、もう少し大きなコミュニティがある感じですか?
そうですね。また、ゲイの人たちが多いシーンでもあるので、芸術に対する考え方が幅広い人達がたくさんいるんですよ。自分では考えつかないことが色んなところでボンボン起こっていて、凄く意識の拡大につながるんです。クラブに遊びに行けばそういう人達も、様々な人種の人達もいて、彼らと友達にもなれるという利点はありますね。
ミュージシャンも多いので、誰かに「アフリカ系の人にアフリカのパーカッション叩いてもらいたいんだけど」って聞けばすぐ見つかったり。だから生楽器のレコーディングには全然苦労しなかったですね。
もちろんニューヨークとかナッシュビルとかのほうが層は厚いのかもしれないけど、サンフランシスコの街の中ではみんな友達、みたいな感じでした。
今はQrionさんがサンフランシスコに住んでらっしゃいますね。
直接会ったことはないんですけど、彼女の音楽には注目していて。いつか会えたらいいなと思ってるんですけどね。「多分あの空気感を味わってるんだろうな」って思うと、いい経験をしているなと感じます。
クリエイターが自ら契約やメンタルヘルスについて学ぶことの大切さ
移住されてすぐにブッキングエージェンシーと契約したんですか?
その時はまだ出版社やエージェントとの契約はなかったですね。完全にフリーで向こうに行って、システムを勉強しました。アメリカにはユニオン(組合)とか、東京とは全然違う進んだシステムがあるじゃないですか。DJはユニオンに入っていなかったですけど、マネージメントに対する考え方とか音楽出版に対する知識とかは皆が持っていて。
でも僕にとっては1枚の契約書であっても英語だし、騙されてるのかもしれないけどとりあえずサインしちゃう、という時期は正直ありましたね。
内容はどうやって確認していたんですか?
一生懸命自分で読みました。アメリカってアーティストの一人一人が自営業なので、自分で税金周りを含めて把握していないといけない。誰かに教えてもらうとなったら弁護士にお願いする国なので、できるだけ自分で読んでサインするようにはしていました。日本であればやらなくていいことも、向こうではやる必要がありますね。
契約書を読めるようになることは、アーティストとして必要なことだと思いますか?
できるようになるべきだと思います。日本で活動するにしても、マネージメントとか、出版とか、著作権の管理とか……アーティストとしての権利に関しての知識は、本当は自分で積極的に学ぶ必要がある。
でも実際に学んでみると、海外のシステムのほうが優れたところがあるとわかります。例えば、海外には何億も売り上げるDJって割とたくさんいるけれど、日本人は一人もいない。その原因の一つには、マネージメントをしっかりできていない音楽業界全体としてのレベルもあるのかなと思うんです。海外のシステムをちゃんと日本に持ってきて、アーティストに還元してあげれば、伸びしろのあるアーティストがきちんと能力を伸ばすことができるんじゃないかと。
個人の才能の問題ではなく、才能をサポートする側の問題であると。
ええ。近年問題になっているアーティストのメンタルヘルスの問題とかも含めて、業界の意識改革が必要だと思いますね。アーティストはとてもセンシティブな人達だから、スタッフが守るべきところを守ってあげた上で、素晴らしい音楽やアートを作り上げてそれをビジネスにしていく。こういうことは業界全体でやっていかないといけないと思うんですよ。
メンタルヘルスの問題への関心が高まったきっかけは何かありましたか。
皆経験すると思うんですけど、自分も音楽活動を続けるにあたって辛い思いはしたんですよね。そこからメンタル・マネージメントについての知識はかなり勉強しました。みんながそれを学べる環境があって、アーティスト自らメンタルのセルフ・マネージメンとセルフ・コーチングができるような社会に早くなるといいなと思っています。
Hideo Kobayashi Music Academyという音楽を教えるスクールを運営しているんですが、その中でもメンタルマネージメントとセルフ・コーチングのやり方を交えて生徒さんにお話ししていますね。
メンタルヘルスを保つために、クリエイターや業界関係者がまずできることは何だと思いますか。
例えば自分のレーベルとか、そういう関係者の輪の中で、若い子とどう接していくかというところをブラッシュアップすることからスタートするのが良いと思います。仲の良いクルーががちょっとした悩みを見せた時とかに、どう対処していったらいいかというところですね。
アーティストの発する小さいサインに、どのようにして気づくのかを整理すると。
結局アーティストって個人じゃないですか。でも2人、3人と集まったら必ず会話が生まれるわけで。会話の中で相手がどう思考を変えていくかということもわかった上で接していかないと、アーティストを傷つけたり、モチベーションを下げてしまったり、「私なんて」という状況も生みがちです。
Rolling Stones誌やSound & Recording誌にもコラムが書いてあったと思うんですけど、メンタルヘルスについての啓蒙活動は全体的にもっとやるべきだと思います。近い将来、自分もメンタルヘルスについてのアウトプットができればいいなと考えています。
後編はこちら:
取材・文:岩永裕史(Soundmain編集部)
HIDEO KOBAYASHI プロフィール

DJ、プロデューサー、リミキサー、ミキシングエンジニア、マスタリングエンジニア、エンターテインメントコーチ。
95年にテクノユニットLOTUSを結成しアルバム「Kasumi Experience」を発表、97年にはRainbow2000にライブ出演。98年頃よりサンフランシスコに移住し、Wave、Chez、Ibadan、King Street、OM等より作品を発表、全米で年150本以上のギグに出演。
09年「Zero」、10年「a Drama」、11年「patissier」、12年「Underground Business」とソロアルバムを発表し、DJとしてもイギリス、ドイツ、スペイン、イタリア、オランダ、ベルギー、ウクライナ、アラブ、韓国、インドネシア等に招聘される。
今年新たにテクノユニット「Kandarta」をOsamu Mと結成。11月にStudio Apartmentにリミックスを提供し、シネマティックな世界観を持つ新しい音楽性の開発にも成功している。
HIDEO KOBAYASHI公式サイト https://www.hideokobayashi.com
Fuente Music公式サイト https://www.fuentemusic.net
Standard Music公式サイト https://www.standardmusic.net