2022.11.02

立体音響でダンスミュージックはどう変わる? “テクノゴッド” Ken Ishiiが探るその可能性

2021年より、Amazon Music Unlimited、Apple Musicなど[※]で提供が開始され、日本でも徐々に身近になりつつある立体音響による音楽リスニング体験。

2022年5月には、日本におけるテクノシーンのパイオニアであり、”東洋のテクノ・ゴッド”として知られるテクノDJ/プロデューサーのKen Ishiiさんが、いち早くソニーの360立体音響技術を用いた新しい音楽体験・360 Reality Audioにリミックスした過去作品をリリース。7月には新曲「Liver Blow」を同フォーマットでリリースするなど、ダンスミュージックの分野から立体音響にアプローチするという新たな試みを行っています。

今回Soundmainでは、そんなKen Ishiiさんと彼の360 Reality Audio音源制作に関わった山麓丸スタジオのエンジニア・Chester Beattyさん、そして、360 Reality Audioの開発に関わるソニーの渡辺忠敏さんにインタビュー。360 Reality Audioとは一体なんぞや? というところから、Ken Ishiiさんが360 Reality Audio音源制作に取り組んだきっかけ、ダンスミュージックにおける立体音響の可能性やミキシングする上でのポイントなどについて、お話を伺いました。

[※] 360 Reality Audioが日本国内で対応している音楽配信サービスは2022年10月現在、Amazon Music Unlimited、nugs.net、WOWOW Lab.、Peertracks。(Apple MusicにはDolby Atomosが対応)

取材の収録場所となった山麓丸スタジオのモニタリング環境。空間オーディオ専門スタジオならではのスピーカーの配置となっている

360 Reality Audioとは?

まず、「360 Reality Audio」とは、改めてどういった立体音響なのか教えていただけますか?

渡辺 360 Reality Audioは、ソニーが開発したオブジェクトベースの360立体音響技術を使った、新しい没入感のある音楽体験です。左右2つのスピーカーで再生する通常のステレオとは違い、サウンドフィールドがリスナーの前面に広がる平面でなく、自分の周りを囲む全天球状態になったことで、クリエイターがそれぞれの音をオブジェクトとして自分の周囲を取り囲む空間に自由自在に配置できるようになりました。

立体音響音源を制作する場合、通常であれば山麓丸スタジオのように周囲を取り囲むようにスピーカーをたくさん設置したモニター環境が必要になります。ただ、再生や制作をするのに一般のリスナーやクリエイターがそのモニター環境を構築できるかというと難しい面もあります。そういった環境整備面での課題を解決するために、360 Reality Audioでは、ヘッドホンで聴いても自分の周囲にスピーカーがあるかのように音が立体的に聴こえるソフトウェア技術も一緒に導入しています。

現在はさまざまな立体音響技術が存在しますが、360 Reality Audioならではの優位性はどのようなところにあるのでしょうか?

渡辺 360 Reality Audioのサウンドフィールドは球体になるため、その上の部分(地球儀に例えると北半球)だけではなく、下の部分(南半球)もうまく有効活用することができます。これまでのサラウンドなどでは下の部分がありませんでしたが、360 Reality Audioではその部分にオブジェクトを置くことができるので、クリエイターはただ単に低音が鳴っているのではなく、その空間の面積や形を表現したり、下方向からの表現も可能になります。また空間の面積を表現することによって、例えばスタジアムのような広い空間で聴こえる地鳴りのような低音を表現するといったこともできるようになります。

ソニー・渡辺忠敏さん

立体音響の音源はステレオとはサウンドフィールドが違うとのことですが、Chester Beattyさんはエンジニアとしていつもどのようなことを意識してミックス作業を行われているのでしょうか?

Chester Beatty 基本的には通常のステレオのミックスのときと同じで、アーティストの制作意図をこちらから深読みするというか、曲の成り立ちを考えながらオブジェクトを配置するようにしています。

立体音響は、サウンドフィールドが広くなったことで2ミックス以上にパンニングも自由になり、本当にどこにでもオブジェクトを配置できるため、作業自体は複雑です。ただ、それでもミックスする側はアーティストがその曲で何を表現したいのかについて考えることを忘れてはいけません。なので、自分は360 Reality Audioとしてより深い表現をするために、どういう世界観で作った曲なのかを事前にアーティストにヒアリングするなどして、ミックスの方向性を詰めてから作業を開始するようにしています。

山麓丸スタジオ・Chester Beattyさん

アーティストから見た360 Reality Audio

Ishiiさんは、どんなことがきっかけで360 Reality Audioに興味を持たれたのでしょうか?

Ken Ishii Chester Beattyさんは元々テクノプロデューサーとして活動されていたこともあって、同じコミュニティの中にいた古い友人でもあるんですよ。それで以前から彼のスタジオを使わせてもらっていたのですが、ある時に「360 Reality Audioに対応した新しいスタジオ(=山麓丸スタジオ)を作ったからちょっと見学に来てみない?」と誘われたことがあって。

その時は特に360 Reality Audioに興味があったというわけではないのですが、とりあえず足を運んでみたんです。それで実際にスタジオで体験してみたところ、「これは何かすごいぞ」と思ったことが興味を持ったきっかけです。それでChester Beattyさんから「もし何か一緒にやれるのであれば……という話があり、僕としてもぜひこのフォーマットで音源を作ってみたいと思ったので、360 Reality Audio音源の制作に一緒に取り組むことになりました。

Ken Ishiiさん

Ishiiさんは最新曲の「Liver Blow」だけでなく、過去のカタログを360 Reality Audioでリリースされていますが、そういった過去作品の立体音響化はリスナーにとってどのようなメリットがあるとお考えでしょうか?

Ken Ishii 僕の過去の作品を以前から聴いてくれている人に、その違いを感じてほしいという想いがあります。さっきChester Beattyさんが話されていたことと関連して言えば、アーティストやエンジニアの中には元々作った曲のミックスに囚われる人も当然いると思います。ただ僕の場合は、もうすでに存在しているものと同じものを作っても仕方がないという考えもあるし、やっぱりこれだけ自由度が高いフォーマットだから、どんなことができるか楽しませてもらっているというのはありますね。

だから、僕にとって立体音響化した過去作品は、過去の“再現”ではないんですよ。もちろん基本的に「この曲はこういう形だ」というのは、自分の中でぼんやりとはあるんですけど、できるだけ遊んでみようとか、同じ形に寄せなくてもいいという考えからスタートしているんです。なので、過去作品の立体音響化作業は、オリジナルとは全然違う風に聴こえれば聴こえるほど作品としては面白いんじゃないか、この曲がこんな風に変わったんだ、と思ってもらえるようなものが生まれればいいなと思いながら作業をしていました。

過去作品を360 Reality Audio音源に新たに作り替える上では、具体的にどのようなことを意識されていたのでしょうか?

Ken Ishii 少しでも聴いていて面白いものになるようにしたいという想いはもちろんありましたが、やっぱり僕の曲はテクノなので、クラブミュージックとしての部分を強く意識しましたね。

具体的に言うと音の聴こえ方です。やっぱりクラブミュージックは、家でヘッドホンで聴くのとクラブやフェスの会場で聴くのとでは全く聴こえ方が違うんですよ。それこそ本当に耳だけじゃなくて身体で感じるというか、低音が足や心臓にドンと響くような体験ができる場所で聴く音楽なんです。

最初にこのフォーマットの音源をスピーカーで聴いた時に、360 Reality Audioとクラブミュージックの相性はバッチリだなと思いました。また、その後に個人最適化した音も聴かせてもらいましたが、その状態だと本当にさっき渡辺さんが話していた通り、スピーカーがすぐそこにあるかのように、音がすごく立体的に聴こえるんです。それにすごく驚きましたし、自分の曲をそういう風に聴かせることができると面白いなと思いました。

360 Reality Audioのミックス作業画面。リスナーの周囲に全天球的に配置されたオブジェクトをリアルタイムに動かして配置していく

今年はTomorrowlandが空間オーディオでライブ配信を行ったことも話題になりましたが[※]、立体音響でクラブミュージックを聴くという体験をアーティスト/DJとしてはどのように捉えていますか?

Ken Ishii クラブミュージックをその現場で聴くという体験は、何事にも代えられないものがあると思います。特にTomorrowlandは、世界最大級のダンスミュージックフェスティバルということだけあって注目度も高いし、行きたくても行けない人はいっぱいるはずだし、そういう形でリスナーが疑似体験できるのは良いことだと思います。

また近い将来、立体音響とメタバース環境でのフェスへの参加は本当にリスナーから求められるものになっていくと思います。特にフェスは自宅でのリスニング環境と最もかけ離れたところにあるものなので、時間や物理的な問題で叶わない人がそういうものを自宅で後からでも体験できるという意味で、すごく可能性を感じています。実際に360 Reality Audioの制作を経験したからこそ、そう思いますね。

Ishiiさんは2020年の「バーチャル渋谷 au 5G ハロウィーンフェス」でもDJをされていましたね。渡辺さんにお聞きしたいのですが、今後そういったバーチャルライブコンテンツと360 Reality Audioの親和性はより高まっていく見通しがあるのでしょうか?

渡辺 360 Reality Audioは空間性の表現がやりやすいので、ライブコンテンツとの相性は良いと思います。また、360 Reality Audioは音楽配信サービスとしてローンチしましたが、今後の展開として動画と組み合わせた360 Reality Audioのサービス展開も検討していて、アメリカで開催されているConsumer Electronics Showなどで動画+360 Reality Audioコンテンツの例を技術発表させていただいています。

デヴィッド・ボウイの生誕75周年を記念し、360 Reality Audioを用いて配信されたライブパフォーマンス”A Reality Tour”

[※] TomorrowlandのライブストリーミングはDolby Atomosでの配信。

立体音響作品には「セオリーがない」からこその可能性

ダンスミュージック系アーティストが立体音響を前提とした作品を作る場合、制作段階ではどのようなことを意識しておくと良いのでしょうか?

渡辺 360 Reality Audioを制作できるツールの話で言うと、現在、Audio Futures社が販売する「360 WalkMix Creator™」というプラグインがあり、日本ではMedia Integration社が取り扱っています。このプラグインで使われている元々のオーディオ信号処理の技術はソニーで開発されたものが活用されており、Audio Futures社の親会社であるVirtual Sonics社と共同で開発しています。

360 WalkMix Creator™は、現在、Pro Toolsをはじめ、Logic Pro、Ableton Live、Cubase、Studio Oneなど主要DAWのほとんどに対応しており、購入後にインストールすればすぐに使っていただけます。このプラグインには、山麓丸スタジオのようにたくさんのスピーカーを揃えたモニター環境がある場合は、そのスピーカーレイアウトにあわせてレンダリングできる機能が搭載されています。色々なスピーカーレイアウトもデフォルトで入っているので、それらを使ってもらうと良いと思います。

また先ほど、360 Reality Audioではリスナーがヘッドホンで聴いてもスピーカーに囲まれたように聴こえると説明させて頂きましたが、制作環境でも同様に、ヘッドホンでまるでスピーカーに囲まれているかのような状態でモニターしながらミックスができます。

なので、360 WalkMix Creator™をインストールしたMacBookにヘッドホンを繋げば、たとえばカフェのような場所でも360 Reality Audio用のミックスができますし、実際に山麓丸スタジオのエンジニアさんもスタジオが使えない場合は、ヘッドホンモニターでミックス作業をして、スタジオが空いたらスピーカーでミックスをチェックされるということもあります。

Chester Beatty 実は山麓丸スタジオでは360 Reality Audioの登場以前から立体音響に携わらせていただいています。ソニーさんで言えば、「Sonic Surf VR(SSVR)」なども手がけており、その過程で色々な立体音響向けのツールを使ってきましたが、正直なところ扱い方が難しかったんです。でも、360 WalkMix Creator™の場合は、DAWの中にプラグインを入れるだけで簡単に立体音響向けのミックスができてしまうから、本当に技術の進化に驚かされますし、僕らからしてもこれがあることですごくミックスがやりやすくなりましたね。

これまでにレジェンドと言われるようなプロのエンジニアからビギナーの方まで、立体音響向けのミックスのレクチャーも行ってきましたが、このプラグインだと数分程度使い方を教えるだけで、皆さんすぐに使い方をマスターしてくれます。今から360 Reality Audio音源を作ってみたい人は、例えばLogic Proを買っていただいて、このプラグインをインストールすれば、ヘッドホンひとつあれば作ることができると思います。

Ishiiさんはいかがでしょうか。

Ken Ishii 360 Reality Audio含め、立体音響作品はまだ通常のステレオ作品と比べて前例が少ないため、そんなにミックスの方程式のようなものが固まっていないんです。だからこそ、誰にでもその効果がわかる完成形に近づける……という話ではなく、「こういう曲を作っているから、こう鳴らしたい」というクリエイターそれぞれのアイデアを実現するための自由度が高くなった、と考えたほうが良い気がします。

具体的なミックスの話で言うと、いわゆるキックの低音が強く「ドン、ドン」と響くテクノらしいテクノの場合、キックの音は基本的に真ん中に置く必要があると思いますが、360 Reality Audioの場合は、その音を真ん中に置くとしても、その位置を下にするのか、あるいは正面にするのか、はたまた上にするのか、曲によってその位置も違ってきます。ベースの音との兼ね合いでもその部分の鳴らし方は変わってきますが、ベースはベースでキックの上に置くべきかというとそうでもなかったりする。そういった点が難しいといえば難しい部分なのですが、僕はそこにも楽しさを感じています。

Chester Beatty 実際にIshiiさんの360 Reality Audio作品の中には、キックを置く位置に関して真下ではなく、正面に置いた曲もあります。要するに曲ごとにIshiiさんが考えるポイントがあって、それによってミックスの基本にない配置の仕方にした曲もあるわけです。その作業中にも「こういう配置の仕方も面白いよね」みたいな話はしていましたね。まだこのフォーマットにはミックスのセオリーがなく、これからみんなで作っていくという感じが強くあります。

なるほど。ちなみにこれまでのIshiiさんの360 Reality Audio作品の中で、最も挑戦的な音の配置といえるのはどういったものでしょう?

Ken Ishii 360 Reality Audioならではの音は1曲のうちに必ずひとつは入れたいと思っていたので、曲によっては通常のステレオではまずあり得ない、オブジェクトが流れ星のように動くものもあります。音の配置とその聴こえ方に関しては、実際にオブジェクトを動かしてみて初めて理解できるので、一度オブジェクトを置いてみて試しに再生してから、その効果を確認していった感じですね。

例えばパッドの音の場合は、自分がその音に包まれているような感じにしたかったのですが、最初に置いた位置でいきなりそうはならなくて。狙った効果を得るために、オブジェクトをちょっとずつズラしながら調整していくということをしました。でも、そういった試行錯誤の中から生まれる表現ができるのも、このフォーマットならではだと思っています。

Chester Beatty Ishiiさんの360 Reality Audio作品の狙いは“空間で楽しめる音楽”だったので、パッドが正面に、ハイハットが真後ろに来ることで、リズムに囲まれている感じを出しています。これは“クラブではそういう風に聴こえる”という認識が前提にあってのものなので、既存のステレオで聴こえるリズムではなく、そういった空間で聴こえるリズムを作っていくことを意識して作業しました。

今後、立体音響の音楽作品が普及していくにはどのようなきっかけが必要になるとお考えでしょうか?

Chester Beatty 実はドイツのテクノアーティストたちはかなり前から立体音響音源の制作に取り組んでいます。ただし、これまでは制作ツールなど技術的な問題で色々とできないことも多かった。最近になって360 WalkMix Creator™のようなプラグインが出てきたことで立体音響作品の制作自体がすごくやりやすくなったので、今後は映像作品など含めて、色々な展開の仕方が増えてくると思います。

Ken Ishii まず、誰もが知っているアーティストで作る人が増えていくことが大事だと思います。先ほど話したように立体音響を通して、クラブでの体験を擬似的に楽しんでもらえる機会を増やしていくことも大事ですね。そして、立体音響との親和性が高いエレクトロニックミュージックには、いまはまだ想像できないような表現を提示できる可能性があるとも思っています。本当にやっていく中でどんどんその面白さがわかってきたので、そういったジャンルのアーティストである自分としては、ゼロからこのフォーマットを前提とした作品作りにも取り組みつつ、今後もその魅力を伝えていけたらと思っています。

渡辺 今、お二人が言われたように色々なアーティストの方に360 Reality Audio作品を作っていただくのはもちろんのこと、このフォーマットはまだ作り方のセオリーがないため、そこがすごくクリエイターのクリエイティビティを刺激していると思います。そういった部分で開発側もクリエイターとうまく刺激し合うことができれば、面白いムーブメントになっていくはずです。

取材・文:Jun Fukunaga

Ken Ishii プロフィール

テクノ・アーティスト、DJ、プロデューサー、リミキサー。「東洋のテクノ・ゴッド」の異名を持つ。’93年、ベルギーのレーベル「R&S」からデビュー。イギリス音楽誌「NME」のテクノチャートでNo.1を獲得、’96年には「JellyTones」からのシングル「Extra」のビデオクリップ(映画『AKIRA』の作画監督/森本晃司監督作品)が、イギリスの“MTV DANCE VIDEO OF THE YEAR”を受賞。’98年、長野オリンピック・テーマインターナショナル版を作曲し、全世界でオンエア。2000年にはアメリカのニュース週刊誌『Newsweek』で表紙を飾る。’04年、スペイン・イビサ島で開催の“DJ AWARDS”でBEST TECHNO DJを受賞し、名実共に世界一を獲得。’05年「愛・地球博」で政府が主催する瀬戸日本館の音楽を担当。’17年にはベルギーで行われている世界最高峰のビッグフェスティバル「Tomorrowland」に出演もはたしている。2019末、13年振りとなるアルバム『Mobius Strip』(メビウス・ストリップ)をリリース。2022年も楽曲リリース、イベント出演のみならず、様々なプロジェクトに積極的に挑んでいく。

HP: http://kenishii.com
Facebook: https://facebook.com/kenishiiofficial
Twitter: https://twitter.com/K_Ishii_70Drums
SoundCloud: http://soundcloud.com/ken-ishii-70drums

山麓丸スタジオ

山麓丸スタジオは2021年6月に空間オーディオ専門のプロダクション・スタジオとしてオープンしました。13.1chのミックスルームを中心に、360 Reality Audio、Dolby Atmosの音源を高いクオリティでスムーズに制作。音源企画から制作進行、MIX、マスタリングまでをワンストップ・サービスとして提供しています。

所在地:東京都港区南青山3-10-9 グロリア南青山101

HP:株式会社山麓丸・山麓丸スタジオ
https://sanrokumarustudio.com/